第32回札幌シルバー・バーチ読書会の報告
5月24日(日)4名の皆様の参加で第32回札幌シルバーバーチ読書会が新型コロナウィルスの影響で会場が借りられなかったためオンライン(skype)で開催されました。先回(第31回)は新型コロナウイルスの感染リスクを抑えるためやむなく中止しましたが、少しでも同じ志の皆様と心を一つにする場を作ろうとオンラインで始めて行うことにしました。通信環境の問題もあって参加出来ない方もおられましたが、充実した内容となりました。
この度は、スピリチュアリズム普及会のHPのインフォーメーションNo.33の「シルバーバーチの霊訓』を中心とするスピリチュアリズムの確立を!」を輪読したあとで、参加者それぞれの近況報告と輪読後の感想を述べていただき、後で感想を送っていただきました。それぞれ自宅でパソコンに向かって話すことで、普段の読書会とは異なりかえってリラックス出来た面もあって、お一人お一人の深い内面のお話が伺えて、良かった面もありました。下記に参加者の感想を掲載します。
【参加者の感想】
○今の世情ゆえ、オンラインでの読書会となりました。参加できたのは4人でその環境が整わない方は残念ながら、参加できませんでした。私はパソコンを新しくしたので、参加が可能になりました。ありがとうございました。
世の中全体がこうした動きになっていますが、今後この流れになってゆくのか、あるいは以前のように人と人が対面しての関係に戻ってゆくのか、多分大きく変化してゆくことは間違いないでしょう。そうであってこそ今回の禍が生きた教訓となると思います。パンデミックが去ったから、とまた以前と同じ間違った歩みをしてはならないのです。同じことの凝り返しではなく、一段と進歩しなければなりません。良いことは取り入れてそうでないものは排除することをしていきたいものです。読書会は人間対人間の関係が大事ですので、やはり皆さんと顔を合わせての集まりが望ましいと思います。
オンラインでも互いに相手の顔を見ての会ではありますが、やはりPCという媒体を介するので相手との間には距離を感じます。今日は普及会のホームページの年頭に於ける真理普及の決意を記したところを学びました。確かに”先に知った者の責任”という重たい文章でした。私達はそれぞれの立場で、思いつく限り、精いっぱいに普及に尽力するのみです。そのことを今日は皆で確認しあうことが出来ました。よかったです。ありがとうございます。
○今回は、講義ではなく参加者で輪読するまさに読書会となりましたので
TV通話ではありましたが、参加したという満足感がありました。毎回思うことですが、シルバーバーチの霊訓の説く摂理・真理を実践することが、スピリチュアリストには求められるということです。それぞれ実践の仕方は異なるでしょうが、私なりに少しでも魂の進化につながるよう努めて行きたいと思います。
○第32回札幌シルバーバーチ読書会に参加させていただきました。スカイプを使った読書会は新鮮で楽しかったです。
さて、今回は「「シルバーバーチの霊訓」を中心とするスピリチュアリズムの確立を!」を輪読したので、雑感を少々書き留めておきたいと思います。
シルバーバーチの霊訓が人類史上最高の啓示であることは、私も同感です。私が、この素晴らしい霊訓に接した最初のきっかけはよく覚えていません。霊界についての知識に最初に接したのはスウェーデンボルグに関してでした。その後、導かれるように、シルバーバーチの霊訓に接したのです。
今回の読書会で感じたキーワードは「責任」と「普及」です。
霊的知識、真理を知ることになった者は「責任」を負担しなければなりません。なぜなら、神の存在を知りながら、神に反逆することは重罪だからです。また同時に「責任」を果たすために義務を遂行しなければなりません。重罪を犯すと重罰のようなもの、つまりカルマという借金を負わねばなりませんが、重罰を恐れて善行に励むのは動機として間違っていると思います。善行の動機については興味が尽きませんが、今回は義務につて考えさせられました。
真理に基づいた義務は、モーゼスの「霊訓」に以下のように記されています。
・父なる神を崇め敬う(崇拝)……神への義務
・同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)……隣人への義務
・身体を大切にする(肉体的養生)……自己への義務
・知識の獲得に努力する(知的進歩)……自己への義務
・より深き真理を求める(霊的開発)……自己への義務
・良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)……自己への義務
・祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)……自己への義務
以上、神・隣人・自己の三者への義務が書かれていますが、シルバーバーチの霊訓の「普及」については、隣人への義務に当たるのでしょう。
「普及」の困難さは、自分の身を振り返ればわかるような気がします。冒頭で述べたように、私自身がそのきっかけがはっきりしません。霊的知識の「普及」について考える時、いつも思い出すエピソードがあります。西部劇に出てくるカウボーイの言葉ですが、「牛の群れを川岸まで連れてくることは出来る、でも水を飲ませることはできない。牛は、喉が渇いていてはじめて水を飲むんだ」というものです。
霊界からもたらされた優れた霊訓を隣人に勧めてみても、果たしてどれほどの効果があるのだろうかと疑問に思うこともあります。霊訓、真理は素晴らしいものです。でも、素晴らしさだけでは伝わらない・・・。また、真理に違反して受けるであろう重罰を強調するのは脅迫じみているし、間違っている。
どうしたら喉の乾いた牛が水を飲むように、霊的知識を浸透させることができるのでしょうか。霊的知識への乾きや飢えは、どのような原因でもたらされるのだろうか?
読書会の後は、知りえた知識よりも湧き出る疑問のほうが多いのがいつものことですが、今回のスカイプを使った初の試みでも同じでしたので、今日の読書会も参加してよかったと思います。ありがとうございました
○今回の読書会は、始めてオンラインで人と人とが繋がることができるのかを試してみる場ともなりました。参加者の最初の問題提起がその後の皆様の発言や私自身の心にも波紋を広げることとなりました。それは、このシルバーバーチの霊訓を中心とする霊的真理を先駆けて知った(人類に与えられた最高の叡智と自覚し、その実践に生涯をかけようと決意した)者としての責任をどう感じるかというものでした。私自身、出会った当初は素晴らしい人生の指針を得たという満足感と少しでも、その教えに近づきたいという気持ちが強く、その点は今でも変わりません。ただ、日々積み重ねる毎に、己自身の至らなさやこれから歩もうとしている道の険しさに希望だけではない、厳しさを感じることも多くなりました。
真理に至る前は、目の前に生ずる出来事に一喜一憂していましたが、いざ究極的な教えに出会ったあとは、確固とした確信は日々深まっていくのですが、実現するにはあまりにも険しい道程に後ずさりすることも一度や二度とは言わずありました。無知であることは、今思えば決して幸福ではなかったのですが、至高の教えを日々歩んでいくのは、特に最初の内は苦しかったと感じます。ただ自然に導かれるままに、様々な出来事がプラスの方向に向かっていることに出会うと諦めずに歩み続けて良かったという気持ちの方が勝ります。そして安易な道のりでないからこそ、おそらく肉体の死が訪れた時には深い安堵と希望を持ってその時を迎えられるに違いないと思えるのです。人生後残り幾年かは計り知れませんが、間違いなく人として正しい生き方、接する多くの人々に少しでも役立てる生き方を実践していきたいと今は思えます。これからもこの道をまっすぐに進んでまいります。